今では、良質なコーヒー豆が手に入りやすくなって、有り難いことに美味しいコーヒーを飲めるのが当たり前になってきました。(本当に有り難いことです)
この本は昭和初期に書かれたものですから、コーヒーの味だとかコーヒーに対する見方などは、今とは全然違うのだろうなあ、と想像していたのですが、意外にも共感できるところや納得してしまうところが多くて、興味深く読めました。
以下引用です。
始めて飲んだ牛乳はやはり飲みにくい「おくすり」であったらしい。それを飲みやすくするために医者はこれに少量のコーヒーを配剤することを忘れなかった。粉にしたコーヒーをさらし
牛乳が「薬」として飲まれていたことも驚きですが、それにコーヒーを含ませて飲まされたのが寺田寅彦さんがコーヒーにのめり込むきっかけだったのも面白い。
自分がコーヒーを飲むのは、どうもコーヒーを飲むためにコーヒーを飲むのではないように思われる。(中略)
コーヒーの味はコーヒーによって呼び出される幻想曲の味であって、それを呼び出すためにはやはり適当な伴奏もしくは前奏が必要であるらしい。銀とクリスタルガラスとの
巧みな文章ですね(笑)。
僕たちはコーヒーをコーヒーそのものの味だけでなく、シチュエーションや気分も含めてコーヒーを体験していますよね。
コーヒー店を営業する僕たちは、コーヒーの味はもちろん、お店に立つ人、お店の雰囲気、そこで流れる音楽、そういったものも大切にしたいものです。
研究している仕事が行き詰まってしまってどうにもならないような時に、前記の意味でのコーヒーを飲む。コーヒー茶わんの縁がまさにくちびると相触れようとする瞬間にぱっと頭の中に一道の光が流れ込むような気がすると同時に、やすやすと解決の手掛かりを思いつくことがしばしばあるようである。
こういう現象はもしやコーヒー中毒の症状ではないかと思ってみたことがある
僕もこういうときよくあります。
頭を抱えて思考が渦巻いているときは答えが出なくて、コーヒーを口に含んだ瞬間、あっと突然ひらめくとき。(あとお風呂に浸かっているときとかも)
このように、コーヒーについての洞察が鋭くて、自分もぼんやりと感じていることを的確に言葉にされているのを見ると心地良さを感じます。
芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。これによって自分の本然の仕事がいくぶんでも能率を上げることができれば、少なくも自身にとっては
確かに、その人にとって活動の原動力となりうるものが芸術や哲学や宗教といったたいそうなものではなく、身近で安価なコーヒーであるならば、それはそれで幸福なことだと思えます。
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このエッセイを読み終えたあと、BASKING COFFEEのコーヒーが、もしくはBASKING COFFEEという存在が、人びとの「活動の原動力」となることがあるとすれば、僕にとってそれ以上の幸せなことはないなーって思いました。
こちらの「コーヒー哲学序説」、短いエッセイですので、ご興味ある方はぜひ読んでみてください。
おしまい
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